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2004/1/1 ヒロ川口

80's前半、ハーレーのドラッグレース界にとっては冬の時代の到来だった。日本製4気筒による怒濤のインターセプトに成すすべ無くカテゴリーを独占されていった。時代背景は日本の各社ともカタログ馬力競争こそ市場を制覇するある意味、狂った論理が増幅していた。とりわけKAWASAKIのZeeシリーズとKaZooと呼ばれたKZの悪魔達はニューヨークのOrient Express(アガサ.クリスティーのミステリーには無関係)のターボ.ファニーバイクで1/4マイル7秒台をコンスタントに出して破竹の勢いだった。I.D.B.Aではマックルーアを始めピート.ヒルと云ったベテランがダブル.エンジンのトップフューエルで闘ってはいたがどう頑張っても8秒台後半。そこへ現在はバンス&ハインズを率いてるテリー.バンスをパイロットにしたRCエンジニアリングがスーパージャージドSUZUKIでいとも容易く8秒台前半でトロフィーを持って行くのであった。 4気筒4キャブ高回転だけなら驚く程では無いが問題は値段が安く大量に売られていたから、壊れても次ぎのエンジンをすぐ造れたのである。  しかし、当時は日本車一筋だったテリーやバイロン.ハインズ、パトリックレーシングの蒼々たる面々が今やハーレーで食べている時代とは、、、認めたくない。

開発費の掛るハーレーはスポンサーも着きにくく次第に同じ土俵で闘うのは無理になっていく頃、我がPOLOCK POWER RACINGはAMA-DRAGBIKEにフィールドを換える事になる。当時でもガロン$20以上したナイトロメサンを大量に呑むトップフューエルマシーンは一回走ると凄い金額が消えて行くシロモノだった。ボスのソニーは私が軽いと云う理由でパイロットをやらせたかったのだが私はトロフィーが欲しくて海を越えて来たのではないからと断り続けた。正直な所、Bone Shakerの暴れるフロントフォークを押さえ込む自信はまるで無かったしテストランでジム.マックルーアがハンドルにしがみついたまま肩を脱臼したのを見たからでもある。誰もが未体験のスピードへのチャレンジでもスキルが確率してなかった時代で時間の流れも緩やかだった気がする、、、成る程ソニーの言う通りテストランだとB&J2速ミッションのクラッチワークは私の方が早かったがナイトロメサンの突き上げる様なゴリラパワーをトップエンド迄引き出す能力は無かった。当時最強のヒルボーンのメカニカル.インジェクションがセッティングが難しく、決まった時はロケットの様な加速だがジェット選定誤るとお手上げになってしまう。しかしエンジンの造型美で語るならシャベルのマグネット点火でカムカバーから配管工の悪魔の様なフィッティング取り回しのヒルボーンが最も悩ましい姿である。こんな冷えた時期ソニーは面白いプロジェクトを始めた、XR-750ダートフレームに900スポーティーを積み、ストローカークランクとBTのシャベルヘッドを組み合わせると云うモンスターだった、900とBTではプッシュロッドの角度がまるで違うので苦労したが出来上がりは正にホットロッドE/g! ビッグバルブと大口径S&Sキャブが使える様になってしかも冷却に有利なアルミヘッド。それはもうミサイルにまたがっているごときスピード感がスロットルにダイレクトに反応して楽しいバイクだったがフレームネックがダート用なので直進性に問題が少々とマグネットのキックオンリーが、、、、いつもボスにからかわれた、”Kid、 鉛のベルトを巻いてキックしろ”  奇しくも年末にブループリント施したSMASH HEAD のXLCHが良く似たスタイルで、時間を越えた20年前の感動を味わえた。そのあと直ぐにシカゴのTROCK Eng.がShvesterとしてキット化したいので譲って欲しいと名乗り出て来たので契約したがそれが売れたかどうか、、。

2003/12/26  ツトム

1979年私はWOODLAND HILLSというLAの郊外に有る高級住宅街に住んでいました、ルームメイトはペパーダインの学生2人、ハイスクールに通う女の子1人、3ベットルーム、1プレイルーム、2リビング、ガレージ、プール付きでレントが月1200ドル、私以外は関西からの留学生で全員お金持ち、彼等のクルマは全部BMW、私はと云うと72年XLH、これもほとんど動かなくてガレージにおきっぱなし、足は彼等が乗らないゴルフを女子高生のマキちゃんを送り迎えする条件で借りてました、10年後にベニスでディラーになる彼女は当時まだ免許を持っていませんでした。 毎日バーベキューしてはプールに飛び込み、グラスを吸ってはマリブキャニオンを越えて波乗りへ行く生活はとても気に入ってましたが、バレーは暑いという理由で引越しする事になりました、ドライバーズライセンスの住所をマリブにしたい、という理由だけでこんどはマリブの山の中に住む事になり、彼等のクルマもベンツやロータスに変わり、私も100ドルのマスタング454に出世、家も二階建ての5ベットで月2000ドルにUP。無謀な生活が始りましたがここも面白い所でトバされる事多々ありましたね、家のオーナーはジューイッシュ(ユダヤ人)でレント契約の際に変な事云ってました、裏庭が広すぎて隣との境界が無いから気を付けろ、野生のコヨーテが居るからネコは飼うな、食われちゃうよ、近くの道は良くバンビが飛び出すから飛ばすな等々、実際にマキちゃんのネコは食われ、鹿も何度かひきました、オーナーはたまに遊びにきてはコカイン無いのーとおねだりする話しの判る?オーナーでした。  現在私は妻と娘一人と埼玉県で2LDKに住んでおりますが、これはやはり子供の頃読んだアリとキリギリスの教訓を生かせなかったからでしょうか、、しかし冬きたり春遠からずとも言えます、人は環境から受ける影響がとても大きい生き物でその人の人生を変えてしまう様です、環境にも色々な要素が有りますね、その人の仕事や住む家、乗るクルマ、バイク。 あの頃の私は生活がそのものが外から観てゴージャスなら良しと考えていましたがそーでも無い事がやっと最近判りました、究極は好きな事が出来る環境です、ボロ家に住んでいてもハーレーダビットソンを取り巻く物と人に関わっていける今、けっこう自分ではゴージャスな生活だと思い始めております、頭の中の最優先事項は愛車のカスタムの事と云う人沢山いますね、その事を考えると脳内ドーパミンが出て来てハイになっちゃう、、仕事?そんなのアトあと、よーく判りますその気持ち。シアワセは以外と近い所にあります、今さら金持ちだけが幸福じゃ無いなんて言いませんが、200万円でこんなにシアワセになれる物も少ないと思います、年を取っても自分の中の最優先事項になる物、きっとそれはハーレーダビットソンか、、。

2003/11/8 ツトム

 先日むかしお世話になった友人がガンの手術をしたので見舞いに行きました、お京さんと呼ばれているが男です、彼は自らをロスアンゼルス大麻振興会の会長と名乗り、サンタモニカで30年暮らしているスシ職人でレストランを4軒もつ実業家でもあります、知り合ったのは24年前に彼のお店でアルバイトを始めたのがきっかけ、面接で聞かれました、”じぶん草 吸うのんか?”私は ”ハイ”と答え採用が決まりその日から2年位お世話になって今でも友達です、確か50を少し過ぎた年令ですが胃ガンになりました、骨に転位していて激痛が有る為に医者が色々なクスリを処方してくれます、やはり合成T.H.C.のマリノールもありましたが会長の彼は飲みません、自然指向です、サティバかインディカ、ハワイアン、最悪でもコロンビアなどの緑色しか吸いません、マリノールは効能上の目的から食欲が旺盛になりますが今いちストーンしない様ですが、癌患者の場合食欲が落ちて抵抗力も低下するので効果は有る様です、アメリカではマリファナを吸った時に陥る空腹感をマンチと言います、よくポテトチップやスナック菓子のパッケージにマンチキングなどと描かれていて笑えますね、そもそも彼は30年前に波乗りしに旅行でロスアンゼルスまで来ましたが、その時大阪でツレが大麻取り締まり法違反で逮捕されると同時に指名手配され日本へ帰れなくなり、そのまま今日までサンタモニカに住んでいて今ではグリーンカードも有り奥さんも子供もいます、彼は人並み以上に努力?して今の生活を実現しましたが病に倒れました。 ”獅子心中の虫”と云う言葉がありますね、ライオンの強敵はトラでもゾウでも無くて心臓に巣食う虫なんだそうです、色々な事に言えますが、自分の敵は外ではなく内に有りと言う事だと思います、そしてふだんは自分の味方のふりをしているらしいのですが、今の私には心あたり有りません。 放射線治療で頭髪もマユ毛もアソコの毛も抜けてしまい、肩と膝の骨が折れても彼は自分でAMGを運転してやってきました、そしていつもどうりにポケットからいろんな物を出してはボクにくれます、お見舞いに来たのに反対に見舞われてしまうダメなわたし、、、ガンが進行しているのに弱気な所はこれっぽっちも見せないお京さん、彼のアメリカでの成功が少し理解る気がしましたが、やはりなぜかむねが熱くなり気休めを言う自分が嫌になりました。 彼の経営する日本食レストランはサンタモニカの2nd Stに鷹寿司、ウエストLAのPicoBlvdにスシハウスと薮レストラン、 ハリウッドに近いLachenegaBlvd にも薮レストランメルローズ店(310-854-0400)が有ります、特にメルローズの薮はレストラン全面禁煙のロスアンゼルスでは珍しく、野外パティオが有るので唯一タバコの吸える日本食レストランです、日本人は助かりますよ、だってヒコーキも吸えないし、私はタバコ吸うのでロスアンゼルス大嫌いです。

2003/10/2 しらいみきやす

不思議な縁で最近、遠方に友人?が増えた。僕の方が友人と勝手に思っているだけ かもしれないけど、、、、、 LA のizumi氏に好きな言葉を送ってもらった。 その言葉はPITのガラスに貼り付けて あるが、もっとも気に入った言葉に  LIFE IS A BITCH BUT I LOVE BITCH AND  BITCH LOVES ME がある。言葉どうりに受け取ればスケベオヤジのチンポネタだけどね 人生、女、バイク、全てを言い表している好い言葉だと思う つまり、めんどくさいことがら、めんどくさい人、めんどくさいものが好きなんだよね また、めんどくさい様々なモノからも好かれてると思う。 先日EVOに乗ってるけど本当はシャベルに乗りたいって奴と話し、同時に捨てられた女の 話になった。 奴がシャベルにも女にも乗れない理由が漠然と判った。 経済的理由とか利便性は詭弁にすぎないし、自分の事を棚に上げて相手が許せないのも鼻 につく、話をよくよく聞くと壊れたり(壊れないよね)めんどくさい事(めんどくさくないけど)の許容範囲が狭いんだよね、、、、それでも惹かれたり 憧れている、、、、、 はなから、馬鹿にしている奴の方が理解出来るし許せる 当然、BITCHはLOVES MEになっちゃくれない   古いもの、扱い難いものを愛でる姿勢、覚悟をこの言葉から感じた、でも押し付けがましくなく、ナチュラルでええ加減、しかも愛がある(褒めすぎですかizumiさん?)
先号のHBJの過激コラムを僕なりに捉えた話です。I LOVE BITCH AND  BITCH LOVES MEこの部分が大切です。壊れたり、めんどくさいのはBITCHの責任じゃありません、選んだ自分が全てを許容し責任を持たないとこの恋は成就しません 。

ガキの頃は映画スカーフェイスに憧れ、麻薬王に成る事しか考えてませんでした(笑)。 20代までの合言葉は 酒、女、麻薬、喧嘩ばかりしていました。 死ぬのも怖くなかったし、、、あらゆるものに噛み付いてました、今思うとアホですね。 何の因果か写真に目覚めアメリカに渡りました、ぶっ飛びましたね、いろんな意味で  また書かせてもらう機会があれば、いろいろ書いていこうとおもいますが、、、、、、、、、、、 帰国して、単車の事故で死にかけてプラプラしていたら、知り合いの893から声が かかって、ビニ本、イリーガルAVを撮ってました。この世界がまたBITCHの墓場みたいな場所で鍛えられましたね。心とチンポを(笑) リーマンも数年やりましたが、腐ってゆく自分に我慢出来ず現在に至ります。 今回はテイストの話を書こうとおもったのですが、、、こんな話になってしまいました。
JUNK−MOTORに書き込んでる野郎は皆BITCH LOVES MEな野郎だと 信じて疑わない今日この頃です。



2003/9/11 ツトム

 1978年3月、ありったけの金50万を持って、LAX(ロスアンゼルス空港)へ着いた日はどしゃぶりでした、その日からトンでばかりいて10日で金が無くなり(当時は1ドル=240円)、とりあえず帰りのチケットをルームメイトに$200で売って新品のリーバイス1本と、コカインを1グラム買って墜ちて行く自分に優越感みたいなもの感じていました、どこがと聞かれても答えられませんが、はなっから計画なんて無かったし、予定どうりってつよがってました、ダウンタウンのボナベンチャーホテルにあった日本食レストランへアルバイトの面接に行って、エレベーターの中でここでは働けないと確信しました、ロスアンゼルスのダウンタウンはカルフォルニアではありません、私には新宿か新橋みたいな街で息がつまりそうでした、70年代にカルフォルニアへ来る日本人の若いヤツのほとんどが波乗りが目的でしたが、自分は棲むことが目的で生きていければ、、と思っていましたがそのとうりで、ただのドラッギーだったです、当然お友達になる人もディーラーかーユーザーばかりでアメリカンドリームとは無縁の環境です、レドンドビーチで運良く最初の彼女と同棲することになりましたが、日本人だったこの子もハワイで大きなコカインディラーのオンナだった為、FBIから追われてLAへ逃げて来た横浜のお嬢様です、妊娠して中絶の手術に行く時にブルブル震えていた事をいまでもはっきり覚えています、彼女は恐かったんです、長年ドラッグのヘビーユザーだったから麻酔が効かないカラダじゃないかと、まだ18才だったのに、、二人目の彼女もクラックの虜でした、私が風邪を引いて熱を出して寝ているのにキッチンから出て来ません、病人のおかゆじゃなくて自分が吸うクラックを造ってるんです、ヒドイでしょうけっこう惚れていましたがこの青学の女も諦めました、二番目のルームメイトの大阪の女の子は長い間ベニスでディーラーしてましたが、ある日ストロークで倒れ、最後に会ったのはイズミとマリーナデルレイの病院へ見舞いに行った時ですが、悲しい事に彼女はオレの顔が判らなかった、日本から母親と妹が文字どうり飛んできました、その夜にオニギリとワンカップをもって滞在先のホテルへ行き部屋を訪ねると廊下から二人の泣き声が、、とてもドアをノック出来ずに帰りました、夢と現実をサンドイッチで食べる毎日は今考えると掛け替えのない毎日で、まるで葉っぱのエッジの水滴の様に今にも零れ落ちてしまう非常に不安定な生活です、 LIFE ON THE EDGE だったと思います、とても今の私には出来ない生活だしやったらバカですが、なぜかあの日が、あの頃の毎日が今思い出すと眠れない夜がたまに有ります、とーぜん人に言えないイナカな事も沢山しましたがそれでも全力で走っていました。 今の私はと言うと、数日前に血便したため大腸癌かもとビビッリ、(ただの痔でしたスミマセン)娘の寝顔をニヤニヤしながら眺めるオヤジで、、ああっ昔の勢いはいずこへ、、という感じです。