2003/7/3 Hiro kawaguchi

今回は趣きを替えて良く聞かれるOut of Izumiに触れてみます。と云うのも先月従業
員の伊藤をLAの新拠点ストックヤ−ドに出向かせエンジンを一台降ろして最後に
izumiのガレ−ジで '65Panの整備でした。予期せぬバッテリ−が破裂のハプニングに
見舞われるも皆無事で良かったのですが伊藤からizumiのお母さんに御会いしたと聞
き改めて懐かしく想う気持ちが沸き出しました。Izumiのお袋さんは素晴らしく自由な
発想をお持ちの方で時にダンスに夢中になったり、お茶を飲みにカフェなどに出向い
たり、渡米する時はネコを連れて行ったりとユニ−クですが更に無くなったお祖母さ
んも又、明るい江戸っ娘でとても思い出深いものが私には残っています。父方の白瀬
家は私などが語るに及ばずですが母方の大池家は生っ粋の江戸職人で象眼の技を極め
たizumiの祖父が亡くなる迄職人を貫いた家系なのです。住所は現在も千代田区九段
で靖国神社の真ん前、私の様に上目黒で生まれ育った東京都民などは九段と聞いただ
けで参ったな〜と感じる特別な地域である。神楽坂(カグラザカ)から麹町(コウジマ
チ)に掛けて戦前の歴史が重くかぶさる地域の中心でしたから。隣の神田迄下れば下
町情緒溢れる庶民の町だが九段一帯はそれらと一線を画し、戦前帝国陸軍の高級将校
や財閥が連夜の会合・宴会を開いて芸姑さんやら三味線と云った映画の中でしか知ら
ない情景が当たり前の町だったと聞いてます。靖国神社を出しても若い世代は知らな
いでしょうがコンサ−トの武道館の隣と云えばわかるでしょう。初めてお宅を訪ねた
時にお袋さんから " ヒロッ! " と呼ばれてそれ以来アタマ上がりません。自分の母
でさえ私の事をさん付けで呼んでたのに・・・。近年、高層マンションに立替え最上
階で優雅にお暮らしであるが挨拶に訪れた時も車の中に居た私のシェパ−ドが吠えた
際、 " 可哀想じゃ無い ! いいから連れて来なさい ! " 私はエレベ−タ−で
人に会わない事を祈りながらゼルダと部屋にお邪魔したのでした。昔のお宅は戦前の
家を想わす小さな竹の垣根がネコの額程の (失礼) 小庭を囲んだ江戸職人の家で近く
には昔ながらの豆腐屋とか私にはタイムスリップの情景でした。おばあさんが実に暖
かい人で昔の話し、特に私の好きな職人の世界を懐かしそうに語ってくれたものです
。残念な事はかの象眼職人のおじいさんに私は生前お会いして無いのです。戦後進駐
軍の高級将校達が大型外車を乗り付け自分の拳銃に象眼を彫って欲しいと次から次ぎ
に来たと云う話しは忘れられない思い出です。おじいさんがどんな想いで進駐軍の偉
い人達の注文に応えて彫ったのかは知る由も有りませんが、この時だけはア〜izumi
が跡を継いでいれば・・・と心底思いました。
勿論拳銃で無くプッシュロッドカバ−に彫ってもらうのですが。ある時おばあさんが
大切そうにしまってあった形見の道具を見せて呉れたのですが、彫金のノミから小刀
迄が実に使い込まれた職人の几帳面さが伝わる逸品でした。油紙にくるんで有るもの
の主を失った刃先には曇りが見られ、もはや研ぐ事も無いで有ろう無念さも感じまし
た。私自身もエンジンカバ−にアメリカ風の彫金を入れたくて渡米する度にEngraver
(ユビワ職人で何故かユダヤ人ばっかり )を良く訪ねたものだったがよもやizumiのお
じいさんがもっと凄い象眼職人だったとは・・・。
遠くスペイン王朝で生まれシルクロ−ドを経てやっと伝わった日本で江戸職人達は華
麗にして繊細な粋の世界に迄昇華させたと云う。日本人と生まれたからには一度は江
戸職人技の代表格である刀のツカやキセルに彫られた象眼を見ておくべきだと思う。
なぜならかの匠達の作品は戦後かなりの数が海外に流出したと聞きますから。
そう云えば私の周りにはTraditionalから別の生き方を進んだ奴ばかり集まって居る
・・・ ツトムもソバ職人の家に生まれている。 Jun もしかり・・・      

We will Desert Dogs !

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島倉智代子が歌ってます、〜ねえコッケイでしょ若い頃、昔話しに涙がいっぱい〜。ハズカシサが男を造るのだ!いっときゃ良かったな〜。
2003/6/24 ツトム

その頃は当然お金が無い不法滞在者だったので、新聞の売り買い欄や、リサイクラー、Photobuy 、Cycletraderなんていう中古車の情報誌を一日ながめては掘り出し物(かなり低確率)を捜していました、バイクにとどまらず車、棲む家、アパート、ルームメート、仕事、なんでもお世話になったです、一度4Sale (売りたし)で73’マスタング マックワン、455、グランプリストライプ、を$500で出した時です、何人か電話貰って、3人目に観に来たチカーノ(メキシカン、彼等はオレ達をハポネ)に$300で売ったんだけど、オッサン乗って来た自分の車を置いていきました、初めは後で取りに来ると思っていたら、良く観るとイグニッションが直結になっていて、、、、それから1ヶ月位家の前にあり、だんだん景色と同化して来た頃、レッカーされました。   たぶん盗難車に乗っていたんだけど子供も出来たし、そろそろレジストレーションが有る普通の車に乗り替えんべ〜、ディールの時ヤバイしヨー、って感じだったんでしょうね絶対。 マスタングを友達から$100で買って、1年位払って無かったからスグ払って、残りの$200はその夜、ルームメート達の鼻に吸い込まれてしまいました。 買う側も色んなヤツに会えて面白いです、ある日イズミから電話がり、バンナイズに好いシボレーのPick up が売りに出てるんだけど観にいかない?と誘われてイクイクーと着いて行きました、イズミが捜していたC-20のロングベット、純正のツートンでかなり格安、掘り出し物でした、確かキャッシュで払うからと$2,800で握手、おもしろかったのは売り手も同じバイカーでパンヘッドに乗り、セカンドカーもイズミと同じ趣味の67’コルベットとSSエルカミーノ、買いに来た野郎が自分と同じOn The Edge だったので彼は上機嫌で家の中まで案内してくれました、売り値は$3,500だったと思いますが、気に入った相手だったんでしょう。     オリエンタルボーイフレンド求む、募集欄のこの言葉が私を捕らえて1週間放しません、ある日覚悟を決めて電話しました、呼ばれた家はパサディナの豪邸、お手伝いさんに居間に通されて、待つ事しばし、あ〜〜〜、ヤッパリ出て来たのは怪物でした、自己紹介で38才と云ってましたが、どうみても68才、、、かなしばりにあっていると、敵は私が動揺した事を見のがさず、1時間ここに居てくれたら$100ヨと切り出しました、ボク、マチガエタアル、カエルアルネ!なぜか中国人のまねを日本語で叫び、逃げ帰ってきました、アメリカはひろい、ヒドイ。

新しく出来たページTEC-TOLKを精力的にこなす中年暴走族ヒロ川口、根っからのH-D DRAG RECE FREAK 、いつの日にか、Pro Street へ リエントリーしましょう!   ツトム
2003/6/2 Hiro Kawaguchi Old Biker

Hello Boys, it's old story of stroker-kid.
'80s のドラッグレ−スシ−ンは技術的問題の高い壁に当たり混迷の時期を迎えてい
た。マ−ケットが小さかった為レ−ス用パ−ツも充実していない状況だったけれど自
分達で何とかする楽しさも反面有った。クランクケ−スもシャベル純正を加工して強
度と耐久性のUP が課題だったのでかなり勉強になり、スタッドボルトが引きちぎら
れるので一旦抜いてキ−ンサ−トと云う航空機用のメスネジを装着してロングコンロ
ッドの爆発力に耐える処置を施してから内面ポリッシュ。クランクはボスのソニ−・
ラスロスキ−が東のジョ−スミス S & S に対抗してカンザスの雄トレット&オズボ−
ンに極秘発注した当時異例の完全半円で錨型フライホィ−ルだった。この斧の様な形
の特性クランクをソニ−はポ−クチョップ・ホィ−ルと呼び9000RPMから上の悪魔の
領域に賭けていた。クル−もコイツを搭載したマシ−ンにBone Shaker (骨まで揺さ
ぶり) の愛称で取り組んだ。低回転での振動を消せない為、いかに速くトップスピ−
ドに乗せるかが課題だった。ボアアップは限界が有るのでひたすらストロ−カ−でト
ルクを稼ごうと試み、コンロッドの開き角度が追い付かなくなると4輪チュ−ナ−の
ISKEY に特注のロングコンロッドを依頼してナイトロメサンの爆発力に対応させた。
ミッションはLENCO 2スピ−ドだったがまだ現在の様なスリッパ−クラッチが完全で
は無くコントロ−ルの問題がクリヤ−出来なかったので4輪と同じダイヤフラム方式
この時期印象に残る開発は新形式の航空機用24ボルトスタ−タ−の改造だった。チ−
ムの本拠地VAN NUYSには後年 J/M のツトムがヘリのパイロット訓練に通うエア−ポ
−トが有ったので航空機関連パ−ツには全く困らなかった。地上最強のボルトNASシ
リ−ズからタイタニウム(チタン) ロックナット迄手に入り、同じく良く買い付けに
来ていたHONDA の開発の人達とも挨拶かわす様になった。勢いが有る時は周りが見え
なくなるもので彼等は当時、日本製のバイクこそ世界の頂点の技術と豪語し6気筒マ
ルチを送り込んでいた。日本食堂でハ−レ−は前世紀の遺物と決めつけ、やがては消
え行く運命だが延命の為技術サポ−トしていると声高に話しを聞かされ複雑に受け止
めていた自分を思い出し、未熟ゆえ反論出来なかったのが今だ忘れられない・・・

チ−ム最大の問題はタイヤで 18" は日本車エンジンの連中が多く使っていたがトル
クの有るハ−レ−には役不足で
15" の4輪用 ミッキ−トンプソンを使用した。しかし正直な所、コレしかチョイスの
サイズが無く、このスリックには本当に苦心させられた。路面温度の溶け始めがいつ
も違ってバ−ンナウトのタイミングがつかみ難かったがどのチ−ムも同一条件なので
差を付けようと必死になったものだが、我がチ−ムはタイヤ設定を諦めナイトロメサ
ンの調合に重点置き、気圧、湿度、風速、路面等のデ−タがカギになっていった。こ
れが地元CAL のRiver sideレ−ス場ならOKだがアメリカは広いのでテキサスより東は
全ての条件が違い苦労の連続だった。そしてこの当時、東
の連中は本当に強く特にデトロイトやCHI-TOWN と地元が呼んでいたシカゴのチ−ム
には相当苦渋を飲まされたのを思い出す。最新の2段階ロックアップクラッチを開発
した彼等はデトロイトの技術もさる事ながら、ガッツがまるで違ってた。
ウエストコ−スト、とりわけサザンCALの世界一快適な住環境に居れば命賭けて何か
極めるなんて全く考えないし他の土地の事にも無関心で生きていけるが、風の強い冬
の劣悪な環境の彼等は自分を証明するのに凄まじい気迫を伴っていた気がする・・・

ドラッグレ−スの場合、ファイナルの結果が全てで途中は力を抜いているのが当たり
前。隣のレ−ンにさえ勝てば良いのでいわば大相撲の立ち会いとおなじカケヒキが占
める部分がとても大きい。だからわざと好タイムは出さずキャリアの浅いチ−ムを揺
さぶるのである。途中のピットワ−クもデモと考える西の各チ−ムはロックをガンガ
ン鳴らして余裕のセッティングだがCHI-TOWNの連中はファイナル前になるとマシ−ン
をテント内に隠してしまうのである。ギヤ比とウィ−リ−バ−の角度調整でスタ−ト
の一発勝負に出るので有るがある時、何げに偵察に行くと2メ−タ−近い大男が意外
な丁寧さで P'ls don't watch our gun !
メンテで一番気に掛けたのは駆動チェ−ンの金属疲労だった。時代はまだグリス封入
チェ−ンが無い頃なので機械的に伸ばしたNewチェ−ンをグリスを溶かしたオイルで
煮て一晩寝かすのが常だった。面倒な手間が掛かるが安全チェックの目が行き届いて
安心できる事を学んだ気がする。現代なら差し詰め、若いメカニックから  "今は8
耐仕様O-リングチェ−ンの時代で伸びたら即交換です " と教えられそうだが   "
それがどうした 小僧 ! "
と心の中て゛つぶやく気持ちはこの時代から今に続いている・・・ Old School
for ever !

片肺でオールドバイカーへたどり着いたコウ木村、この日は流石にキビシイ表情です、とかなんとか言ってエキゾーストまたイジッテル?
2003/5/27 Ko Kimura 3rd

このコラムコーナーで原稿を書かれているSTROKER-KIDさんが以前書かれていたのと
同様僕も小学生の頃から人がやっている事と同じ事をするのが嫌いで 特に僕はひねくれてた子供だったので世の中で普通に流行ってる事全てが敵に思えて 松山千春などから金八先生までクラスメート内で流行ってる事全てを目に入れないというか 否定して育ってきました。「そんなシャバイ事やってられねーよ!」
と一人で言っていると やはり世の中にはヘンなやつが少しはいるので そんな奴ばかりが自分の周りに集まってきました。やはりそんなグループは半端者の悪い奴ばかりで より一層 世間から離れていく一方 グループは中学生くらいになると結構大きなものになっていました。そんな中にいると今度は麻痺してきて その中でも 「人と違う自分になりたい」と思いだします。グループの中の奴らと違う自分になる為には そいつらがやってる事を否定して逆の事をする。
というのが王道なので その頃グループの中では みんなタバコや酒などを飲み始めて悪ぶっているのを見て ひねくれ物だった僕は「今のNYじゃ 禁酒、禁煙が一番かっこいいんだ」といい出して 本人はその悪グループの中でもより一層異色な存在になってしまいました。
本人自体は「俺って皆と違ってカッコイイ!」と真剣思っていましたが 今考えると ひねくれ方が行き過ぎて180度回転してはたから見ると ただのいい子だったんじゃん!と思えますが その頃は真剣「俺ってワルの中でもイケてる」って思ってました。笑えますね。で、ひねくれ者で皆と違う事をしていたいと思ってた子供は音楽方面でも 皆と違う方面を追求し始め 今から20年位前にはもう今で言う「クラブDJ」的なことをはじめていました。一般人と違うアンダーグラウンドであるところに自分の存在意義と美学があるので ついついその音楽をものすごい深いところまで追求してしまい 気がつくと今から15年位前には毎年、年に4−5回NYにレコードを買いに行くようになっていました。NYに住むことも考えましたが 食文化が純日本人な僕には 別の趣味「美味しいもの食べ歩き」を捨てきれず、渡米はやめました。
そんなことをやってると ある程度自分がやってる事が認められてきて仕事にもなってきて 一応そのNYハウス系の中ではオーソリティーと言われるようになっていました。そして自分はアンダーグラウンドでかっこいいことをやってるから みんなにわかって欲しいと思いつつDJを続けてると だんだんと 有名になってきたのはいいんですが 昔の自分と同じようなひねくれた奴がやはり何処にでも現れてきて 今度は自分が否定される側になってしまっている事に気付きました。「メジャーなものに対するアンダーグラウンドの抵抗」だった自分の行動が いつの間にか今度は逆の立場になっていたのです。
そういうやつらが 僕の事を何故意味もなく否定するか 子供の頃そうだった自分が一番わかっているくせに納得がいかない微妙な心情のせめぎあいを少しだけたまに感じつつ でも結局人が噂する自分の人気云々より 本当に好きでかっこいいことをしていきたいと思ういつもの僕でした。僕の場合は音楽ですが それをカスタムバイク製作に置き換えると 同じ事を感じられてるショップやビルダーも多いと思います。     CONTINUE!